赤根武人は、天保九年(1838年)瀬戸内海に浮かぶ周防柱島(はしらじま)(現山口県岩国市)の島医者松崎三宅(まつざきさんたく)の長男として生まれる。安政三年(1856年)ごろ松下村塾に入門する。
文久三年(1863年)長州藩が攘夷決行、下関で外国船を攻撃するが反撃され手痛い敗北を期す。そこで、軍事力の強化のために高杉晋作が庶民も含めた奇兵隊をつくる。島医者の子で庶民の武人もこれに参加しやがて第三代総督となる。その後、奇兵隊などの活躍で藩内の尊王攘夷をかかげる倒幕グループが実権を握る(元治の内訌(げいじのないこう))。
慶応元年(1865年)、幕府は二度目の長州征伐に乗り出す。一度目は、長州藩が3人の家老を切腹させることで戦わずして敗北する。再度の長州征伐、藩論は、「三家老の切腹で片を付けたはずだ。」と倒幕の考え方で一致した。しかし、武人は禁門の変や四カ国連合艦隊の攻撃など度重なる敗北で長州藩には幕府を敵に回して戦う力がないと考えた。そこで、自分が調停役となって幕府と長州藩の間を取り持とうとする。極めて冷静な判断である。しかし、武人は八か月にわたって幕府側に捕らえられてしまう。一方藩内では、武人は幕府と通じる「不義不忠」の汚名がきせられる。武人は真意を理解されないまま山口で処刑される。
慶応二年一月二十五日のことである。調停者の武人は、一丸となって幕府に刃を向けて立ち上がろうとする長州藩にとっては邪魔者で、捕らえられた時「真は誠に偽に似、偽りは以て真に似たり。」と獄衣に書いたとされる。水面下では、二十一日には薩摩藩と薩長同盟が密約の形で締結されていた。幕府の長州再征は、風雲児高杉晋作が奇兵隊などを率い長州藩の勝利に終わる。武人は島医者の子という庶民の出、高杉は藩の名門武士の出であった。